 昭和50年に山内フェニックスが出来、51年に皆が6年生になると、ユニフォームが新調され、統一されました。それまでは白を基調に、それぞれ少しずつ違うユニフォームを着ていましたが、新調されたユニフォームは水色のニットでちょっと高級な感じがしました。実は、2年目秋位になるとメンバーも多くなり、AチームとBチームに分かれて大会に出場していました。この分けは6年だからAチームに入れると言う訳ではなく、6年でも力の無い子はBチームで戦う事になっていました。AチームとBチームはユニフォームも違い、このニットのユニフォームはAチーム専用でした。デザイン的には、どちらかと言うと今のフェニックスよりもサンダーボルトに近い感じがします。胸のネームもFENIKSで帽子のマークもFと、今のフェニックスとは全く違います。
ところで、この写真は昭和51年の春の緑区の大会に優勝した時に撮られた物と思われます。
当時、フェニックスと山下クラブ、すすき野シャークスの3チームが強豪でした。(と葵の会長から聞きました)山下クラブに酒匂川君というすごい選手がいて、私はその事しか覚えていません。真っ黒で背が高く、どこに投げても必ず打たれてしまうという選手でした。ストレートもそれほど速くなく、あとはカーブしか投げられない私には、彼を抑える事は出来ませんでした。
さて、もう一つ想い出があり、当時はこの写真の大半のメンバーが履いているスパイク、白いオニヅカのスパイクが憧れでした。皆持っているんです。私は歳の離れたいとこが、たまたまスパイクを買ってくれると言うので、迷わずオニヅカのスパイクをねだったのですが、たまプラ駅前の東スポでは、丁度サイズ切れでした。泣く泣く違うメーカーのしかも黒いスパイクを買って貰い、履いていました。
酒匂川君を抑えられなかったことと、白いスパイクを履けなかった事が今でも心残りです。
 この写真は、昭和51年夏の大会、準優勝の時の盾です。何故か今も私が持っており、実家にあったので、撮って貰いました。
今のグランノアに、以前出光興産のグラウンドがあったのですが、この大会の決勝はそこで行われました。黒土の非常に良いグラウンドでした。
その日の先発は、私でした。四球も出し、少し打たれてしまい、途中で降板しました。結果は5対8、勝てば平和球場(建替えられて今は横浜スタジアム)で市大会に出られたのですが、あと1歩でした。この時も、相手は山下クラブだったと思います。
実はこの日朝、トイレに入り座っていたところ、壁にクモが歩いていたんです。そのクモを手で潰してしまったのですが、朝のクモは殺してはいけないと迷信がありますよね。それで負けてしまったと今でも思っていて、それからは、朝のクモは殺さないように逃がしています。
 6年最後の大会も、準優勝でした。この盾も何故か我が家にあります。この大会の事は、よく覚えていません。
ただ、今の少年野球のチームと違い、練習も試合も監督さんとコーチ一人だけ、当時はお母さんの当番など無い時代でした。私の父親は、よく観に来てくれて、審判をやってくれたりしていましたが、父は土日仕事が多かったので、いつもいる訳ではありませんでした。今思うと、監督さんはとても大変だったと思います。感謝の念で一杯です。
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