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ここのところ、試合ではビデオを撮っていましたので、アップする写真がありません。ちょっとブレークと言うことで、私の少年野球の想い出続きです。 小学校5年生になると、やっとリトルリーグの空きが出来たと、連絡がありました。たまプラーザの駅から少し歩いたところに、ロケット公園があり、そこには、レディアンツというチームと、スネークスという2チームがありました。私は、レディアンツに入りたかったのです。 ただ、今のリトルリーグとは違い、100名近い部員がいると言う事を聞いていました。 そんな時、5年生で一緒のクラスになった五十嵐君が、野球チームを作るので、一緒にやろうと誘ってくれました。私は、リトルリーグでやりたかったので、断りましたが、熱心に誘ってくれます。今でも覚えているのは、当時土曜日は半ドンでしたので、4時間目の終わりに帰りの挨拶をする際、向かい側で、「来いよ」って口を動かす五十嵐君の姿です。 家に帰って、悩みました。が母親からの、100人もいるチームで出られないより、友達のチームで試合に出る方が、楽しいんじゃない?という言葉で、決心がつきました。 美しが丘から、今のあざみ野団地の辺りまで、バットにグローブを付けて、歩いて行きました。既に、クラスメイトは練習しています。遅れていった私を見て、監督である五十嵐君のお父さんが、「誰?」って言っているのが、わかりました。でも、快く迎え入れてくれました。 そのチームが、山内フェニックスです。山内フェニックスの始まりは、こんな感じでした。 私は最初、レフト、センター辺りを守っていました。はっきり言って、うまくなかったです。フライも、最初の内はバンザイしていましたし、後ろのフライは、真後ろに下がっていきました。半身なんて、しませんでしたね。それは、遊びの野球では外野をやらないからです。 でも、毎週、毎週練習するにつれ、フライ捕りは、お手の物になりましたね。皆練習は真面目でした。一生懸命練習していました。だから、フライが捕れるようになるのも、早かったと思います。 確か、5年生の中頃でしょうか、外野専門の私に転機が訪れたのは。ずっと自宅では父親とキャッチボールをしていましたが、常にピッチング練習でした。 ショートとピッチャーを掛け持ちで守っていた友達が、ある時右腕を骨折してしまいました。その時、ピッチャーが出来るのは、その友達と五十嵐君だけでしたので、困った監督さんが、友達に、誰かピッチャーの出来る選手がいないかと聞いたところ、私を推薦してくれた様です。 友人の骨折が無ければ、私はずっと外野専門でいたでしょう。それから友人の骨折が治っても、私がピッチャーをずっとやって行くことになりました。 写真は、アルバムに貼ってあった物をデジカメで撮りましたので、少し色が出ていません。 昭和50年9月頃の写真と思われます。私と、五十嵐君、そして骨折してしまった関戸君です。 写真を見て頂くとわかりますが、帽子のマークは、Fの筆記体です。胸のマークは、「FENIKS」なんです。今のフェニックスは、PHOENIXですよね。どの時期かに、変えたのでしょうね。 その後のお話は、また次回に。 |
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| 内 容 | ニックネーム/日時 |
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最初は、僕と同じなんだね。 |
直人 2007/05/18 20:05 |
誰だって、最初は同じだよ。 |
こば 2007/05/19 00:55 |
こんばんは。いわたです。 |
いわた 2007/05/24 23:55 |
コメントありがとうございます。 |
こば 2007/05/25 00:40 |
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